菊花賞で歴史が刻まれた日曜日



「世界のホースマンよ見てくれ、これが日本近代競馬の結晶だ!」
英雄はその蹄の音のように静かに、そのしなやかな肉体のように雄々しく、その勝ちっぷりのように衝撃的に、大仕事をやってのけました。ナリタブライアン以来11年ぶり史上6頭目3冠馬、無敗の3冠馬シンボリルドルフ以来21年振り史上2頭目の快挙。単勝100円元返しは菊花賞史上初となる記録でした。
その配当とは裏腹に苦戦を強いられました。デビュー以来最高のスタートを決めたディープインパクトは、流れのまま自分のペースを作りにかかります。しかし、あまりに早くゲートを出すぎたため惰性が付いてしまったのか、それとも初めて2週コースを回る長距離戦に馬が1週目の3,4コーナーを勝負どころと勘違いしたのか、ディープは暴走気味に掛かりはじめます。滅多に無理矢理に馬を抑えることのない武豊が、力の限り必死に手綱を引っ張っていた姿勢が、この時のディープがいかに行きたがっていたかを物語っています。1週目の直線入り口でやや強引に内目の進路をとった武豊は、前方を行く馬たちを壁にしてディープが落ち着きを取り戻してくれるのを待ちます。この時の武豊は祈るような気持ちだったと言います。その祈りが通じたのか、ディープは徐々に落ち着きを取り戻し納得したかのように中団で折り合いました。
最悪の事態をまぬがれたものの、前半引っ掛かったスタミナのロスは長距離戦において致命傷になりかねないもの。武豊はそのロスの帳尻を合わせるために、いつもの勝ちパターンを捨ててギリギリまで脚を貯め込む作戦に移行します。恐らく不本意な騎乗だったでしょう。ダービーで2着したインティライミのような馬がいたとしたら、その馬にとっての絶好の展開をアシストしてしまうかもしれない。しかし、この時のディープにはそれ以外にこの状況を打開出来る術はありませんでした。
向こう正面坂から3、4コーナーまで、左右に他の馬がいなかったことはディープにとって助けになったかもしれません。いくら脚を貯めたくても左右から上がっていく馬がいれば自分のペースを乱されるし、前をカットされたら外あるいは内に進路を変えなければいけないロスになってしまう。しかし、ディープはこのポイントを中団単騎で進めたことにより直線への末脚を貯めることに成功しました。
スタミナのロスは挽回しました。しかしディープが本来仕掛けどころとしている残り800mのあたりでも前半の取り繕いに当ててしまったがため、ゴーサインを出したのが残り600mを切ったあたり。直線を向いた頃には先行馬がはるか前方にいる状態でした。そんな中ポーンと一頭抜け出したのがアドマイヤジャパン横山典弘です。期せずしてか意識してか、ダービーのインティライミのような早め先頭からの逃げ込みを図る作戦に出た横山典弘の好判断がディープを追い詰めます。武豊は鞭を連打して懸命にディープの闘争心を鼓舞します。そして、ディープはそれに応え脚を伸ばしました。



歴史的な瞬間でした。
しなやかさと力強さの融合された競走馬の理想とされる最高のフットワークを発揮したディープは、前を行くアドマイヤジャパンを一気に捉え、最後は2馬身の差をつけ誰もが待ち望み春先から確実とまで言わせてきた快挙のゴールを果たしました。
レース後の武豊の第一声は「感無量です」。快挙達成によるリップサービスではなく、正直な気持ちでした。この時の武豊はいつもとは違い顔も紅潮気味で声も上ずるほどに興奮をあらわにしていました。それもそのはずです。勝って当たり前というよりも、無敗の3冠を達成して当たり前という1度たりとも負けることの許されない雰囲気の中、天文学的な単勝支持率や膨らむ周囲の注目度が天才に尋常でないプレッシャーを与えました。それでもほぼ完璧に近いレース振りでこれを跳ね除けてきたディープでしたが、最後の最後である菊花賞でこれほどまでの苦戦を強いられ、もしかしたら負けるかもしれないという気持ちも脳裏によぎったことでしょう。だからこそ、ゴール板を過ぎたあと武豊の中では達成感よりも安堵感の方が先に立っていました。インタビューで幾度となく繰り返した「良かった」という台詞は、もしかしたらディープやファン、そしてスタッフではなく自分自身に向けられたものだったのかもしれません。それはディープを仕上げたスタッフも同じことだったでしょう。競馬ファンを熱狂の渦に巻き込んだこの見事なまでの快挙は彼らの多大な尽力が影にあればこそでした。


3冠馬を達成し名実ともに英雄となったディープインパクトと一時的にプレッシャーから解放された武豊と陣営が描く次の目標は何でしょうか。ファンの興味は尽きず、ジャパンC有馬記念、来年の海外遠征など様々な展望が開けてきます。だけど、とりあえずは彼らが達成した歴史的な快挙を賞賛することにしましょう。「衝撃の瞬間移動」の余韻に浸りながら。



英雄の凱旋